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山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.60「GP生活で唯一の悲しかった君が代……富沢祥也を悼む」

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、その当時を振り返ります。2010年のMotoGPは、第13戦サンマリノGPで Moto2に参戦していた富沢祥也選手の事故死という悲しい出来事に見舞われます。山田さんは、富沢選手とも数々の交流がありました。

TEXT: Toru TAMIYA

本当に“いいヤツ”だった

2010年のMotoGPで、もっとも忘れられない出来事は、イタリア・ミサノサーキットで開催された第12戦サンマリノGPで、Moto2に参戦していた富沢祥也選手が決勝レース中のアクシデントにより亡くなられたことです。MotoGPクラスが2009年から我々ブリヂストンのワンメイクになったのに対して、Moto2はダンロップが単独オフィシャルサプライヤーでしたから、ライダーとタイヤメーカーということでは直接的な関係はありませんでしたが、世界を舞台に戦う同じ日本人ですから、接点はたくさんありました。

雑誌のインタビューで何度か同席して、一緒に食事をしたことも……。スゴく“いいヤツ”でしたから、ちょうど同い年だったこともあって「うちの娘をどうだ?」なんて言ったら、「ぜひお願いします!」と言うので、「俺のことをお父さんと呼べるか?」と言って2人で大笑いをしました。「チャンピオンになったら、銀座にでも飲みに連れていってあげるよ」と言ったら、「本当ですか。でも僕、12月に20歳を迎えるからまだお酒飲めないんですよ……」なんて。だから、12月末に忘年会も兼ねて祝勝会をする約束もしていたのですが、それも叶いませんでした。

そういえば、以前にご両親から彼がラーメン好きというのを聞いて、7月にカップラーメンを1箱、日本から持って行ってあげたことも……。それ以来、会うたびに「おいしかったです!」と言ってくれていました。事故の前日も予選後に会って「調子どう?」と聞いたら、「予選はイマイチしたが、決勝はいきますよ!」と笑顔で語ってくれたのが最後でした。富沢選手は、Moto2が初開催された開幕戦で優勝したことに加えて、明るくオープンな性格が好かれて、短時間で外国人プレスにも可愛がられる存在になりました。ですから、決勝レースの終了後はプレスルームも本当に沈痛ムードでした。事故の後、MotoGPを運営するドルナスポーツのカルメロ・エスペレータ会長から、意識がなくて危険な状態という情報は得ていましたが、私は「まさか」という思いでした。

MotoGPのレースがスタートして、ピットレーンでレースを見ていたら、スペイン人のTVコメンテーターが「ダメだった……」と。私はそれで頭が真っ白になり、その後は目でモニターを見ているのに何ひとつ頭の中に情報が入ってきませんでした。この年も毎レース後、日テレG+用にインタビュー収録をしていたのですが、このときはカメラ前で話をすることができない状況だったのでお断りしました。今でも、ただただ残念でなりません。

サンマリノGPの翌戦は当初、ハンガリーで予定されていたのですが、サーキットの建設が間に合わず、代替えとしてスペインのアラゴンサーキットで第13戦アラゴンGPとして開催。そこでは富沢選手の追悼イベントがあったのですが、その式典に当時のスペイン国王が出席してくれたことに驚きました。前国王はモータースポーツファンとして知られていましたが、日本人ライダーの追悼イベントにヨーロッパの国王が参列するというのは、あまり考えられないことなのです。この追悼イベントには、ライダーや関係者などかなりの人数がホームストレート上に集まり、黙祷のときには君が代国家が流れました。GPで君が代を聞くときは、いつでも感動で涙を誘われますが、あのときは心の底から悲しい涙が流れました。

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.60「GP生活で唯一の悲しかった君が代……富沢祥也を悼む」

アラゴンは火星みたいなところ?

さて、あまりしんみりした話を続けるのもどうかと思うので、サンマリノGPとアラゴンGPについて、富沢選手以外の思い出もいくつか披露しておきましょう。まずサンマリノGPですが、私が初めてミサノサーキットに行ったのは1991年のこと。じつはこのとき、サーキットを探し回って迷子になったことがあります。というのも、大会名称から考えてサンマリノへ行けばすぐに場所はわかるだろうと考えていたのです。ヨーロッパでGPが開催されるサーキットなら、いたるところに大きな看板が出ているので……。ところが、サンマリノに行ってもなかなか見つからず、現地の人に来てみたら「サーキットがあるのはミサノだ」と言われて、青くなった苦い記憶があります。ちなみに、サンマリノ共和国は周囲をすべてイタリアに囲まれたミニ国家で、現存する世界最古の共和国。ミサノサーキットとは数十kmの距離です。当時はまだインターネットも普及していませんし、当然ながらスマホやグーグルマップなんてない時代。にもかかわらず事前調査もせずに行ったので、全然違う場所でサーキットを探すことになったのです。

一方でアラゴンGPは、この2010年に初めてGPを開催。というのも、サーキットは前年9月に完成したばかりでした。当然ながらブリヂストンとしても初めてレースをするコースということで、事前にコース図をもらったりエンジニアを視察に派遣してコースをチェックしたり……と、準備を進めてきました。公式な事前テストは設定されなかったので、GPライダーの多くは市販車で練習走行に行ったようです。私は事前視察には行かなかったので、他のスタッフにいろいろ情報を聞いたところ、「アラゴンは火星みたいなところでした!」と、訳のわからない冗談のようなことを真顔で言われました。レースウィークに訪ねてみて、その発言に納得。サーキットは赤茶けた山に囲まれて、その近郊一帯がまるで砂漠地帯のようなのです。スペインにこんな場所があるのかと、本当に驚きました。しかも、50kmくらい離れた小さなホテルに泊まったのですが、途中に信号がひとつもない道でした。なぜこんな場所にサーキットを建設したのかと不思議に思っていましたが、アラゴン州が地域活性化のため、ユーロからも融資を受けて建設したとのことでした。

その初開催のアラゴンGPでは、ドゥカティワークスチームのケーシー・ストーナー選手が約1年ぶりの優勝。ホンダワークスチームのダニ・ペドロサ選手が2位となりました。ドゥカティワークスチームのニッキー・ヘイデン選手が、ラストラップにヤマハワークスチームのホルヘ・ロレンソ選手を抜いて3位。シーズン初表彰台に登壇しました。ロレンソ選手は表彰台こそ逃しましたが、それでも2番手のペドロサ選手とは56点差のランキングトップをキープ。残る戦いは5戦で、ランキング3番手のストーナー選手は129点も離れていたことから、この段階でチャンピオン争いはロレンソ選手とペドロサ選手にほぼ絞られていました。

2020年開幕戦カタールGPでは、富沢祥也選手の親友でもあった長島哲太選手が日本人として10年ぶりにカタールGP・Moto2クラスを制した。長島哲太選手にとって、初表彰台が初勝利だった [写真タップで拡大]

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