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香港の大学は、高い研究力が世界で評価されている。香港特別行政区政府(以下、香港政府)や各大学は、基礎研究成果の実用化のため、産学連携を促進する体制や支援制度を充実させてきた。香港と同じアジア文化圏で地理的距離も近い日本の産業界は、いかに香港の大学のポテンシャルを活用できるのか。
本稿では、特許出願に関する統計などを基に、香港の大学が優位性を有する分野を整理するとともに、大学から産業界への技術移転の仕組みや、支援策について紹介する。また、ジェトロが2021年6~7月に香港大学、香港科技大学、香港中文大学の関係者に対して行ったヒアリング結果から、香港の大学と日本企業の連携に向けた可能性や課題を考察する。
まず、香港の大学に対する評価について、いくつかの指標を参照する。英国の大学評価機関のクアクアレリ・シモンズ(QS)が公表する「QS世界ランキング2022」では、在香港9校のうち5校が100位内にランクインした。うち最上位は、香港大学で22位と、日本の大学で最上位の東京大学(23位)を上回った。このほか、香港科技大学(34位)、香港中文大学(39位)などが続いた。また、英国の高等教育専門誌「Times Higher Education(THE)」が発表した「THEアジア大学ランキング2021」でも、上位10位内に既述の3校がランクインした。このほか、発明品に特化した世界最大の見本市「ジュネーヴ国際発明展」で、2021年に香港中文大学、香港城市大学、香港浸会大学、香港大学、香港理工大学、香港教育大学などの大学が合計23枚の金メダルを獲得した。
次に、香港の大学による特許の出願状況から、強みを有する分野を整理する。香港政府による大学発スタートアップ資金援助スキーム「大学発テクノロジー・スタートアップ・サポート・スキーム(TSSSU)」を受ける6大学(香港大学、香港科技大学、香港中文大学、香港城市大学、香港理工大学、香港浸会大学)が出願した特許(2011年~2020年)をみると、医療系とバイオ・有機化学が合計で33.8%を占めた(図1参照)。このほか、測定・計算・光学が14.9%、半導体装置などの電気電子系が12.6%と続いた。
医療・バイオ分野の研究成果(実用化成功例)としては、非侵襲的な出生前検査手法がある。2008年に香港中文大学の盧煜明(デニス・ロー)教授が、妊産婦の血漿(けっしょう)の中から胎児のDNAを検出してダウン症などの遺伝性疾患を診断するために、開発した。同大学によると、当該技術は90カ国で毎年700万回以上利用されている(「サウス・チャイナ・モーニングポスト」2020年12月14日)。また、最新の研究事例としては、香港大学が国際組織の感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)の資金援助を受けた新型コロナウイルスワクチン開発がある(注射を必要としない経鼻のもの)。
電気電子系技術で実用化の成功例では、ウェアラブルデバイスに用いられる繊維状のリチウムイオン電池がある。香港理工大学の鄭子剣教授が率いる研究チームが開発した。また、香港中文大学の湯暁鴎教授が同大学の「マルチメディアラボ」で開発した顔認識技術は、香港発の人工知能(AI)ユニコーン企業、センスタイムの起業につながった。さらに、香港科技大卒業生の汪滔氏は、大学在籍時の研究開発(R&D)成果を生かし、大疆創新科技(DJI)を設立した。DJIはいまや、世界最大手の民生用ドローン企業に成長している。これらの大学発スタートアップは、早い時期から特許出願に積極的であったことも特徴的だ。
TSSSUの資金援助スキームを受ける6大学による2011~2020年の特許出願先は、中国が約6割、米国が約4分の1だ。両国合わせて全体の8割超を占める(図2参照)。3位の香港(5.1%)とは大きな差がある。大学関係者に聴取したところ、出願がこの両国に集中している理由は、巨大な市場を有することに加え、語学的な側面が指摘された。すなわち、中国語や英語で手続き可能ということだ。
日本を出願先とした割合は、4位の欧州特許庁(EPO、構成比3.6%)に次ぎ、5位だった。構成比は1.8%にとどまる。日本への出願件数が中国や米国を大きく下回る最大の理由として大学関係者が挙げたのは、日本へ出願する際、明細書などの書類の翻訳コストが高いことなどだった。ただし、連携先企業が日本をターゲット市場として出願・権利化を望み費用を負担する場合には、大学側としても日本への出願も積極的に進めたいとのコメントも聞かれた。
高い研究力の土台となっているのは、世界各地から集まる優秀な人材だ。スイスの国際経営開発研究所(IMD)による「2020年度世界人材競争力ランキング」で、香港は総合ランキングで63カ国・地域中14位に位置する。特に、人材のスキルや能力を測る「人材の備え(readiness)」では、シンガポールに次ぐ2位にランクインした。なお、同ランキングを構成する項目の1つ「理科系(情報技術、工学、数学、自然科学)卒業生の比率」は40.6%で同じく2位であった。
香港の大学の卒業生や教授陣には、ノーベル物理学賞、チューリング賞、フィールズ賞などのといった国際的大賞の受賞者がそろう。物理学、計算機科学、数学などの分野で傑出した業績が顕彰された顔ぶれだ。たとえば、香港中文大学の元学長、高錕(チャールズ・カオ)教授は、光ファイバーの研究でノーベル物理学賞を受賞した。また、同学の姚期智(アンドリュー・ヤオ)教授は、暗号理論を含む計算理論への貢献でチューリング賞を受賞した。さらに、同学の丘成桐教授は、微分方程式などの分野への貢献でフィールズ賞を受賞した。
香港政府も、こうした人材面における優位性を重視。科学技術人材の育成に向けて、政策展開している。例えば、政府は2021/2022年度(2021年4月~2022年3月)の財政予算案で、理工系科学を振興する新制度に20億香港ドル(約280億円、1香港ドル=約14円)を投入することなどを発表した。その中には例えば、理工科専攻の大学生がイノベーション・テクノロジー分野の企業のインターンシップに参加する際の資金補助制度を恒久化することや、海外の著名な科学技術研究者や研究チームを呼び込み、香港の大学で教育・研究への参加を支援する施策が含まれた。
香港の大学は、基礎研究に強みを持つ一方、応用研究や実用化に課題があると言われてきた。香港政府も2016年の施政報告で、「大学の研究成果をいかに実用化につなげるのかが、香港のイノベーションの発展における重要な課題」と言及。これまで金融・物流ハブとして発展してきた香港の将来を支える新たな方向性として、大学の高い研究開発力を産業界でどう活用するかが重要視されている。
香港政府は、同活用を促進すべく、具体的な支援策を実施してきた。2010年4月から実施している研究開発費キャッシュバックスキームでは、企業が香港政府指定の大学や研究開発機関と技術提携して研究費用を全額支払う場合、40%のキャッシュバックを受けることが可能だ。また、2019年1月にはパートナーシップ研究プログラムを始動。企業が香港政府指定の大学、研究開発機関とR&Dを行う場合、当該研究プロジェクトに相応な資金を助成する(1機関あたり累計最大3,000万香港ドル)。これらの支援策は、会社条例(第622章)に基づき、香港で成立した企業が対象となる。すなわち、日本企業が香港で現地法人を設立した場合も原則として利用可能になる。
また、各大学で、産学間の連携や産業界への技術移転を進めるための体制が整備されている。商業化可能な技術の発掘、知的財産権の管理、企業との連絡、大学発技術スタートアップ・スピンオフのサポートなどを行う専門部門が置かれているのが通例だ(表参照)。香港大学と香港科技大学では、企業との間の各種契約締結や技術ライセンスの管理などを、大学が完全所有する子会社が専門的に担っている。
役割・機能 | 香港大学 | 香港科技大学 | 香港中文大学 |
---|---|---|---|
技術移転オフィス(TTO) | 技術移転センター(TTC) | 研究・知識移転サービスオフィス(ORKTS) | |
Versitech* | HKUST RDC* | ||
iDendron | 起業センター(EC) | InnoPort |
項目 | 香港大学 | 香港科技大学 | 香港中文大学 |
---|---|---|---|
連絡窓口(部門) | 技術移転オフィス(TTO) | 技術移転センター(TTC) | 研究・知識移転サービスオフィス(ORKTS) |
連絡窓口(メール) | info@tto.hku.hk (TTO), info@versitech.hku.hk (Versitech) | ttcac@ust.hk | orkts@cuhk.edu.hk |
連絡窓口(電話番号) | (852) 2299 0111 | (852) 2358 7917 | (852) 3943 9881 |
技術リスト | リスト(香港大) | リスト(香港科技大) | リスト(香港中文大) |
注1:*印は、当該大学の完全所有子会社。注2:技術リストの最新情報は、各大学の関連部署に直接お問い合わせください。出所:各大学の技術移転オフィスホームページ(2021年8月12日取得)を基にジェトロ作成
こうした中で、香港の各大学は、研究成果実用化の実績を積み重ねてきた。例えば、香港域内での例としては、香港大学が2015年、香港税関との連携により、SNSで販売されている模倣品をAIが追跡し「おとり捜査」するシステムを開発した。最近ではコロナ禍の中、香港科技大学の研究チームが開発した発熱探知システムが香港国際空港、香港政府オフィスなどで活躍している。このシステムは、AIやリアルタイム追跡、ビッグデータ解析技術が組み込まれたものだ。
海外でも、実用化成功事例が出てきている。例えば、香港大学で開発された超音波画像診断装置の技術(血液の乱流と速度を可視化するもの)は2015年、米国、中国、欧州などの市場に導入された。大手医療機器メーカーとの連携した結果だ。また、同学は中国鉄鋼業界大手企業集団の宝鋼集団(注)および米国の自動車メーカー大手ゼネラルモーターズ(GM)との共同研究により、軽量化した鋼を開発。この製品は、2013年に有力業界誌に掲載された。その結果、GM以外でも、日産自動車や中国の自動車メーカーなどで活用された。香港科技大学のスピンオフ企業が開発した発光性蛍光プローブは、刺激応答性材料や生物検定法(bioassay)などへの応用・実用化に至っている。この製品は、米国企業との海外販売代理店契約を通じて世界中に供給。2017年には、日本のライフサイエンス企業との連携を通じ、日本市場にもアプローチしている。同学担当者は、これまでの日本企業との連携について、「日本企業は香港の中小企業と比較して技術水準が高い。大学は基礎研究技術が強みで、これを応用技術に移転する連携がスムーズに進む」とコメントした。
一方、大学関係者へのヒアリングでは、日本企業との提携に関する課題についても言及された。
まず第1に、日本企業との交流の機会が少ない点が挙げられた。マッチングイベントなどで大学の技術を日本企業に紹介する機会が限られるため、既存の連携事例は、学会やセミナー、研究論文に興味を持った日本企業からの個別連絡に頼ってきたという。確かに、大学の研究者が技術移転先を提案する場合もある。しかし、こうした研究者ルートで日本企業が紹介されるケースは少ないとの指摘もあった。その背景には、香港の大学に所属する日本人研究者が少数にとどまることがある。そうした提案は外国籍研究者によってなされ、母国企業を連携先として提案されるケースが多いためだ。
また、日本企業の柔軟性やスピード感に欠ける面が、提携を進める上で課題になるとの声も聞かれた。一部の日本企業は、固有の自社ルールを厳守するイメージがある。また、日本企業は交渉の場などで決定権を持つ者が明確でなく、判断が遅いといわれる。そうした姿勢や体制が、新しい機会や分野への進出に対し閉鎖的な印象を抱かせている面があるだろう。
他方で、ヒアリングした3大学の関係者からは「交流の機会が増えれば日本企業との連携は進んでいくはず」と、前向きな声も聞かれた。いずれの大学も例外なく日本企業との交流を歓迎し、さらなる産学連携に期待が寄せているのだ。香港の大学と日本企業の産学連携事例はまだ多くはない。しかし、香港の各大学は香港政府の支援策などを積極的に活用しながら、数多の優れたイノベーションを創出し続けてきた。そうした特長を持つ大学との連携機会は、注目に値するだろう。