<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下...

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<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(5)「十五円五十銭」の闇その3…デマを拡散した新聞報道

御蔵橋に打ち捨てられた死体(『サンデー毎日』1975年9月7日号)

<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(5)「十五円五十銭」の闇その3…デマを拡散した新聞報道

壺井繁治を載せた汽車が群馬県の磯部駅で停車中、隠れていた3人の朝鮮人が捕縛される。彼らの運命はどうなったのか――。東京から遠く離れるほど流言蜚語の内容はエスカレートしていた。そこには新聞メディアの力が大きく働いていた。(劉永昇)【写真特集】これが日本のヘイトスピーチの現場だ(8枚)◆捕えられた朝鮮人の運命回想の中、壺井の乗る汽車は大宮から信越本線に入った。途中停車場に着くたびに兵士が乗り込んできて、車内はもちろん列車の底まで調べ上げた。そして上州・磯部駅(群馬県)で3人の朝鮮人が客車の底に隠れているのが見つかった。……暫くしてワッとときの声が上がった。そして哀れな三人の鮮人労働者はこの土地の青年団の手に依って捕えられたのだ。ときの声に交って、やっつけちまえ、だとか、殺しちまえ、と云うような声が私の耳に微かに聞き取られた。……車内の人々は今の出来事をとりどりに話し合った。鮮人が列車の底に隠れていたのは、この列車を転覆さすためだったのだと断定を下す奴もあった。捕えられた朝鮮人はどうなったのだろうか──。『関東大震災朝鮮人虐殺の記録―東京地区別1100の証言』(西崎雅夫編著・現代書館)から東京市内の事例を引こう。まず両国国技館の北西に架かる御蔵橋での惨劇である。五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時(いつ)しか死して行く。(墨田区・成瀬勝、当時20歳)現在「朝鮮人犠牲者追悼碑」が建つ横網公園も虐殺の現場となった。(被服廠跡(現・横網公園)の)わずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を四人、十人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイ(棒杭)で押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に「こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ」と、目が血走っているのです。(墨田区・浦辺政雄、当時16歳)